2020年2月29日土曜日

長崎原爆で家屋が炎上と焼失した瓦礫に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。(長崎)

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分頃に投下されて炸裂した。長崎市内は、ほとんど壊滅状態となった。原子爆弾による爆心地からの激烈な爆風、熱射、放射線の暴発により、ほとんどの長崎市の市街地は炎上して壊滅した。家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。散乱する多数の白骨の中で、肉親の遺骨も同定が困難であり、せめて居住していた家屋の付近に一つの木製の墓標だけを土中に立て掛けた。原子爆弾の被爆後から長崎市内の各地に原子爆弾で被爆死した被爆者を弔う致し方ない粗末な墓標が見られた。被爆後の49日頃には慰霊の法要を行う地区もあった。


 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に、原子爆弾による被爆死した不詳や行方不明の遺骨、故人が同定されるも引き取り手がない無縁死没者の遺骨を奉納している。1947年に城山町の有志により、駒場町に「原爆殉難死者納骨堂」が設置された。爆心地の周辺に散乱した多数の被爆死者の遺骨を収集し奉納した。その後に長崎県の各地などに散在した無縁仏の遺骨を引き取った。1958年に長崎市が岡町に「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」を建立した。1994年に平和公園の工事により、岡町に現在に至る新たな長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に建て替えられた。
 

2020年2月22日土曜日

広島原爆の救護所が8月12日に竹やぶの中でも被爆者が搬送され救護された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂してから、広島市三滝町に臨時救護所が設置された。8月12日に竹やぶの中にも被爆者が搬送されて救護されていた。救護所、応急処置所、避難所、収容所など機能を特定するのは困難であった。三滝町は、広島原爆の爆心地から約2.5kmに位置した。三滝橋付近には広島第2陸軍病院の三滝分院が、8月6日に設営されて約700人の被爆者を収容していた。爆心地から約半径2km以内ではほとんど家屋が全焼していた。多くの被爆者が道路の両側にいっぱいに倒れて原爆死していた。しかも、死体が約70cmの高さで、両脇に積み重ねられた。どうにか動ける被爆者たちが病院や救護所を求めて避難された。その途中に力尽きて倒れて死亡した。死体が道を塞ぎ通れないため、人々が死体を両側に寄せて積み重ねた。やっと大八車1台が通るほど道幅が狭くなった。
 25歳の女性は、8月6日の夕方に地獄の広島市内から歩けぬ人々を励ましながら、やっと三滝近くの線路土手にたどり着いた。三滝橋を渡ると、太田川放水路の南方の猛火の町と太田川の死体は散乱して漂っていた。己斐方面から歩いて来た男性がそばに来て「広島は大変なことになったけども、助かった今の命をどんな時にでも大切にするんだよ」と私達を励ました。「これをあげます。」と云って、私の水筒にサイダーを入れかえてもらった。死体を前に生き地獄で見た男性からビスケットもたくさんもらった。人情に唯々嬉しく涙こぼれてお礼を申し上げた。広島原爆で亡くなられた人々に合掌した。


2020年2月14日金曜日

19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下した翌日に挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きなガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。(長崎)

日本赤十字社の19歳の看護婦が、アメリカ軍が長崎原爆を投下して炸裂した1945年8月9日の翌日の9月10日に長崎市内で長崎原子爆弾を被爆して負傷した被爆者を救護した。挺身隊の女子学生の火傷した顔面から大きいガラスのみを抜いて、出血を止めるために包帯を巻いた。看護婦は、医師1名と16人の看護婦と約3人の衛生兵で、長崎の隣県の佐賀市の陸軍病院から救護に派遣された。汽車で、佐賀駅を出発して、長崎原子爆弾の爆心地から北に約3.5kmの道ノ尾駅に9月10日のお昼頃に到着した。直ちに道ノ駅の臨時救護所で診療の補助と療養の世話をした。道の駅の周辺には、横たわった重度の被爆者が散乱していた。白衣に着替える間もなく、制服で救護をした。次々にガラスを抜いたり、チンク油を塗布した。しばらくすると医薬品が枯渇した。軍の命令により、8月15日の終戦まで救護活動を継続した。原爆症により、半年後に白血球が約2,000まで減少した。救護をしていた医療関係者は原爆症を患った。

 
2020年2月14日 Japan Atomic Bomb (JAB) 
日本原爆の会 視聴回数 190,000回

2020年2月1日土曜日

長崎原爆の爆心地から南に約2.9kmの新興善国民学校救護所で、老人は頭部の火傷にチンクオイルをピッセットのガーゼで塗ってもらった。(長崎)

長崎原子爆弾による頭部の火傷を受けた被爆者は、1945年8月下旬に長崎市興善町の新興善国民学校に特設された救護病院で加療を受けた。新興善国民学校は、爆心地から南に約2.9kmに位置した。男性被爆者である老人は頭部の火傷にチンクオイルを浸したガーゼをピッセット塗ってもらった。新興善国民学校は、原爆による火災を免れて新興善国民学校救護所となった。8月11日には、針尾海兵団より救援隊が到着して、そらに佐世保海軍病院武雄分院からも医療隊が到着した。壊滅した長崎医科大学を代賛して、8月16日に新興善特設救護病院となった。さらに、10月6日から長崎医科大学附属病院となって被爆医療の主軸となった。
 長崎市に投下されて炸裂したマットマンと呼称された原子爆弾は、広島市に投下されて炸裂したリトル・ボーイより破壊力が増大していた。長崎市内の盆地状の地形により、被害地域は限定されたが、被爆死は約7万人にも達した。長崎市内の膨大な被爆者に対する救護活動は、長崎原爆が炸裂した翌日の8月10日から始動された。わずかに生存していた長崎医科大学と浦上第1病院の医師・看護師・学生などが参加した。建物が残存した新興善、勝山、伊良林などの国民学校に臨時救護所が設置された。そちらに大村および諫早の海軍病院、三菱病院、長崎県内の医師会なども救護活動に参加した。救援列車が復旧してから、沿線の大村海軍病院などの救護機関に護送された。しかし、被爆者の救護活動は、1945年10月に打ち切られた。
 ハリー・トルーマン大統領は原爆被爆者を調査し、放射線被爆が彼らの健康にどのように影響したかを研究することを担当するる原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)の設立を1946年11月に署名した。1948年10月に長崎ABCCは新興善小学校内に設置された。ABCCは被爆者だけに優先する責務を回避して、医療は提供せずに健康診断の実施に限定した。それ以後は、被爆者らは1957年に原爆医療法までは自己負担と自己責任を強いられた。



広島のK. キッカワは広島原子爆弾の閃光による焼傷後に、1947年4月30日時点でケロイドが全身に背中から上肢に発生した。

   非公開の日本原爆被爆者の写真 ー 原爆傷害調査委員会(ABCC) ー アメリカ国立公文書館 (The National Archives College Park, Maryland)  SC-285581 (アメリカ陸軍通信局長写真) SC-285581 (FEC 47-...