2018年8月2日木曜日

長崎原子爆弾に被爆した翌日に、避難して座り込んだ少女が、水筒から少量の最後の水をゆっくり飲んだ。(長崎)

長崎原子爆弾による熱射と放射線に浴びながら三菱製鋼所の付近まで避難した。爆心地から南約1.5kmに、翌日の1945年8月10日午前10時頃に井樋ノ町のトラックの荷台の上と横で既に数名が被爆死していた。1台のトラックの周辺では、一面が焦土化した地域を避難して、約10人が日陰に倒れ伏した。長崎市の連絡員が自分の水筒を被爆者らに渡した。トラックの手前の布団の上に座り込み被爆した少女が、その水筒から少量の最後の水をゆっくりゆっくりと回して飲んだ。



2018年8月1日水曜日

重症の原爆症により、口唇と口腔内の出血から口内炎症と脱毛した兵士は翌日に死亡した。(広島)

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から南西1.0kmの屋外で被爆した日本軍兵士が、第1陸軍病院の宇品分院に護送された。重症の原爆症により、口腔内を診察すると、口唇から出血して、さらに歯茎からも出血が継続していた。口内炎も併発して、さらに脱毛も伴った。1945年8月下旬に病状を撮影した翌日に、日本軍兵士は死亡した。



2018年6月2日土曜日

18歳の女性学徒が、長崎原子爆弾で顔面、両方前腕から右膝関節周辺に熱傷を被爆して、大村海軍病院に収容された。(長崎)

長崎市から北東約20kmも離れている大村海軍病院は、大村海軍航空隊のために1942年10月から開設された。1945年8月9日午前11時2分に炸裂した長崎原爆から午後3時になって電話連絡で救護隊が被爆者の護送を始めた。18歳の女性学徒が、8月9日に長崎海軍病院の第6病舎に護送されて収容された。顔面および両方前腕から右膝関節周辺に第2度の熱傷を被爆して、水疱を伴っていた。8月25日には、顔面の熱傷は黄褐色の痂皮で覆われてほとんど落ち着いた。しかし、8月28日の血液検査で白血球数は約800個 /m3( 基準値3,500から9,500)まで著明に減少した。赤血球は437万個(350から500万)、ヘマトクリット48%(35から45%)、色素係数は0.55であった。創部はリバノール肝油で湿布やマクロライドを塗り、火傷は軽快した。リンゲル液は静脈注射して、トリアノンを服用して感染を予防して、ナルビンを注射して造血した。8月31日に第3病舎に転舎した。




2018年5月28日月曜日

広島原子爆弾が炸裂して孤児になった男子は、火傷した子供を背負って、全滅して1月後の広島市内の荒野に呆然と起立した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、多大な犠牲者が被爆した。膨大な死者数のために、両親が共々が被爆死して、約6,500名以上もの被爆孤児のみが生存して残された。炸裂してから1ケ月後に男子は、火傷した子供を背負って、全滅した広島市内の荒野に呆然と立たずでいた。子供の頭部には、多数の火傷の瘢痕が残っていた。男子は軍帽をかぶり、小袋を抱えて草履で起立して、子供と一緒に悲しそうにカメラを覗いた。アメリカ軍の周りを取り囲んでは、おねだりして飢えをしのいでいた。アメリカ軍の海兵隊の従軍カメラマンであったジョ オドーネル(Joe O'Donnel)が、1945年9月2日に佐世保に着港してから、佐世保・福岡・広島・長崎を巡視して、空襲と被爆状況を撮影した。



2018年5月25日金曜日

17歳の男子工員が、長崎原子爆弾で上半身に2度の熱傷を被爆して2日後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、17歳の男子行員が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、8月10日に六病舎に収容された。重度に被爆して、熱線により顔面から頚部、左前胸部、左上肢にかけて第2度の熱傷を受傷した。火傷は深さによりI度熱傷からIII度熱傷に分類され、深達性II度の熱傷は、治癒期間は長く瘢痕や瘢痕拘縮を残す。収容された当初から全身状態が悪化して寝たきり状態となる。翌日の8月11日午後6時には急激に重態となり死亡に至った。



2018年5月19日土曜日

広島原子爆弾の閃光を両手で両眼を防ぎ、両手の手背部以外の顔面は重度の熱傷を受けた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、日本軍将校であったO大尉は、一瞬の閃光を見上げた。その瞬間に両手で両眼をふさいだ。両眼をふさいだ両手の手背部は、閃光からの直射で重度の熱傷を受けた。次日の8月7日に、広島江波分院に護送された。両眼の周囲から顔面は軽度の火傷で収まったが、両手で防げなかったその他の顔面周囲は重度の火傷を受傷した。江波分院は、広島第1陸軍病院江波分院として、東練兵場の江波兵器学校を救護所として8月6日に設置されて、約10,500名を収容した。救護所は8月7日時点では約11ケ所のみと広島県は記録した。周辺地域からの緊急救援は、三原市医師会(広島市から72km)は「8月6日午前9時、三原警察署より広島市戦災につき救援すべき通報に接し、既に組織してある救護班員を非常招集して、午前11時トラック2 台にて出発」と記録された。



2018年5月3日木曜日

長崎原子爆弾に被爆した14歳の女子学徒が19日目に大村海軍病院で原爆症で死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に長崎市内で炸裂した。同日に、14歳の女子学徒が、長崎市内から北東約20kmも離れた大村海軍病院に護送され、六病舎に入院した。顔面から頚部、左前腕、左膝蓋部に重度の熱傷を被爆した。応急的に消毒液を湿したガーゼを火傷に貼付けた。全身状態が重篤となり、8月12日から毎日リンゲルを600ccを輸液した。入院して19日目の8月28日から脈拍が微弱で不整となり、胸部痛で苦悶した。体温が38.2から39.4度を上下して、午後1時30分危篤に陥り、午後2時30分に死亡した。皮膚には大小のうっ血斑をがあり、死斑は身体の下垂部にも広がった。毛髪は脱毛しかけ、無数に脱落していた。その後に詳細な病理解剖をされた。



2018年5月14日 Japan Atomic Bomb 日本原爆の会 視聴回数 20,000回

広島のK. キッカワは広島原子爆弾の閃光による焼傷後に、1947年4月30日時点でケロイドが全身に背中から上肢に発生した。

   非公開の日本原爆被爆者の写真 ー 原爆傷害調査委員会(ABCC) ー アメリカ国立公文書館 (The National Archives College Park, Maryland)  SC-285581 (アメリカ陸軍通信局長写真) SC-285581 (FEC 47-...