2022年9月17日土曜日

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、炸裂後に約6週間後にアメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。

長崎原子爆弾によって、破壊された仏像と寺院が、アメリカ軍兵士により1945年9月24日に撮影された。右手奥に山王神社の「片足鳥居」がみえる。本尊だった仏像が頭を垂れていた。ボロボロになった寺院と仏像の上の丘から撮影した。世界で2番目の原子爆弾攻撃で、長崎市内が破壊されてから6週間後にアメリカ軍海兵隊のリン・ウォーカー(Lynn Walker)が撮影した。

 長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎に投下された原子爆弾の原爆のコードは、「リトル・ボーイ」と呼称された。」長崎に投下された原子爆弾は、約1月前にトリニティ実験で試行された。広島に投下されたウラン235とは異なり、長崎はプルトニウム239が原料でより強力な原子爆弾であった。長崎は、周囲を山に囲まれた地形だったために、破壊力はその山々に留められで、盆地の内部では広島原子爆弾よりも強力な威力を及ぼした。炸裂の下の領域は「震源」と呼ばれ、華氏5,000度から7,000度に達して、想像を絶する一瞬の破壊力であった。

 山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居まであった。1945年8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊した。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の1945年に左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残存した。戦後の1962年に、一の鳥居は交通事故により倒壊したため、当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなった。



 

2022年9月10日土曜日

長崎原子爆弾によって被爆死した家族の遺骨を、婦人がありあわせの骨箱に入れて、城山国民学校付近から三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。

長崎原子爆弾によって、被爆死した身内の遺骨を、家族がありあわせの骨箱に入れて運んでいた。遺族が、遺骨を三菱兵器製作所の合同慰霊祭に持ち運んでいた。写真中央のレールは国鉄長崎線であり、左奥に見えるのは城山国民学校であった。

 その写真を撮影した松本栄一は、朝日新聞社から記者とともに、2人で原子爆弾が投下されて炸裂した長崎市と広島市に派遣された。1945年8月25日から9月15日まで長崎市内を撮影して、その後に広島市に向かった。その途上で、枕崎台風に遭遇した。広島市には9月18日から25日まで滞在した。松本栄一は、元朝日新聞社カメラマンで、2004年12月2日に、89歳で肺炎のために自宅で死去した。長崎市と広島市の両都市にて、被爆直後の両都市の惨状を撮影した数少ないカメラマンの一人である。8月下旬から9月中旬まで約1カ月間、長崎市内と広島市内の原子爆弾による被爆の現状や街の被災を数多く撮影した。

 長崎原子爆弾は広島より強力であったが、その影響は丘陵地から狭い浦上渓谷に限定された。三菱軍需工場内で動員された学生や一般労働者を含む約7,500人の日本人従業員のうち約6,200人が死亡した。長崎市内の他の軍需工場や工場で働いた約17,000~22,000人が死亡した。即死者の死者数の推定は約22,000~約75,000人と幅があり、少なくとも約35,000~約40,000人が死亡して、約60,000人が負傷した。長崎原子爆弾の炸裂後の数日から数ヶ月間は、被爆により多くの人々が死亡した。非正規雇用の外国人労働者や通過中の軍人が多数いたために、1945年末までの総死亡者数の推定には大きな差異があり、約39,000人から約80,000人の範囲が様々な研究で報告された。




2022年9月3日土曜日

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。

広島湾沖の似島の草むらに捨てられた板金の間に、1945年10月頃に被爆死して集団埋葬された遺骨上に3本の墓標が厳然と立っていた。ここの墓地は、広島市中心部から約9km離れた似島にある臨時の墓であった。広島市中心部から約9キロ離れた似島には、1945年8月日の広島原子爆弾の投下から炸裂後に、約3週間で約1万人の原爆被爆傷害者が収容された。暁部隊を統括する日本陸軍船舶司令部は、似島の第二検疫所を臨時野戦病院として使用することを決定した

 似島は、日清戦争を契機に広島市の行政、軍事、医療支援の拠点となった。1894年の赤痢・コレラ流行時に、病原菌も持ち込みを防ぐ陸軍の検疫所として設置されて、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などでも重要な検疫所の役割を担った。1945年8月6日に、似島は重傷の原子爆弾の被爆者のための臨時野戦病院となった。

 広島の宇品港からフェリーで爆心地より午前10時頃から似島に運ばれた約1万人の被爆者のうち、助かって生存したのは約3割と言われた。多くの被爆者を治療護するために、多大な労力と犠牲が必要だった。原子爆弾の被爆者の死者は日に日に増えて、死体は火葬に付されるなど、危機は深刻化した。被爆してからわずか約4日で、似島での火葬の処理は困難となった。唯一の選択肢は、身元不明の数千の死体を似島に集団埋葬することだった。3つの墓標下の埋葬の意味が、次第に遺骨の重みを帯びた。荒涼とした空間の中にある塚の側に、文字を刻んだ3本の石柱が寄り添って立った。

 1945年9月に、陸軍馬防疫所の敷地内に千人塚と呼称する供養塔が建てられ、検疫所職員が発掘した被爆者の遺骨を納めた。その後、1955年7月に約2,000人の遺骨が似島から広島平和記念公園内にある広島市戦没者慰霊塔に納められた。

 似島は平和資料館として、広島原子爆弾で死亡した被爆者たちの慰霊碑が残存している。似島平和祈念資料館には、先祖や島の歴史を守る住民たちが約20年以上かけて収集した約130点の資料が展示された。似島は、遺骨の回収を目的とした発掘プロジェクトも進行した。1947年から1971年に約4,000人の遺骨が発掘された。2004年には約90体の遺骨が発掘され、さらに数年で多くの遺骨が発掘された。似島での遺骨の発掘と確認には、経年劣化や放射線被曝により、遺骨はもろくなって、細心の注意と時間をかけて修復した。







2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

 長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。



2022年8月20日土曜日

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から白黒撮影された写真を、AI技術と文化の推測でカラー化して再塗装された。

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から撮影された。広島県呉市吉浦町(現・若葉町)から、炸裂後の約40分後の午前9時頃のきのこ雲を、白黒写真で撮影された。吹き上がる巨大なきのこ雲が、生々しくオレンジ色に染めて、広島市の爆心地付近では熱線で約4000度近くにも達した。

 白黒のきのこ雲を、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは、AI技術でカラー化した。AI技術で約10%は自動化でカラーされる。ピンクも黄色も薄緑も、淡いグレーとなる。その他は、被爆体験者の記憶や歴史考証から補正された。白黒写真が色彩を帯びることで、原子爆弾を転写して、戦争の歴史が現代に地続きになり、実感される。(出典: 週刊ポスト・第54巻第26号、2022年8月5日)。アニメ映画『この世界の片隅に』の片渕須直監督の指摘から、赤みがかった雲をオレンジ色に、地上から立ち上った白い雲が覆い隠した。コンピューターソフトで解析した色彩を、年代や当時の文化等を精査して再構築する仕組みである。本当の色彩は不明であり、完全な再現は困難で、解析した仕組みが決めた色彩に変換された。色彩の復元ではなく、白黒からカラー色を推測して再塗装した。

 


 広島県海田町から呉海軍工廠火工品部設計係に勤務していた31歳の尾木正己は、炸裂時は室内で兵器の設計の仕事中で、鉛筆を持つ手が持ち上がるほどの轟音が聞こえた。仕事を中断して、ドイツ製ライカできのこ雲を撮影した(広島原爆戦災史、第三巻、第二編、第二章、原子雲)。日本軍が作成した記録によると、原子雲の中で何かが燃えているように見え、強い火花と閃光が煙雲の中で大規模な火災のように見えた。吉浦の近くに、8月6日午後5時頃になって被爆者が続々と避難してきた。吉浦駅では、衣服の引き裂けた血のにじんだ服装で、血の気が失せた人々が呆然とホームを徘徊していた。8月7日朝に出勤して、広島市に海軍工廠として火工兵器の経験者として救援隊を出した。トラック3台に工員が分乗して、広島市に向う一員に参加して8月7日に被爆直後の広島市内を撮影した。


2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。




2022年8月5日金曜日

広島原子爆弾の爆心地から約800m北方の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や草木の根は生存して、原子爆弾が炸裂して1945年10月末に生物不毛の地に、カンナは新しい生命の芽を出して再び新しい花を咲かせた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約800m北方にある日本軍の歩兵第一補充隊(旧二部隊)の焼跡には、強烈な熱閃光を浴びた。炸裂した直後は、爆心地から約800m北方の被爆地の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や地中の草木の根は生存していた。被爆しして、約2ケ月過ぎの1945年10月末頃に、灼熱の夏から涼しい秋を迎えた頃に、カンナから再び新しい生命の芽を出して、美しい花を咲かせた。カンナの手前において、日本軍兵士が所持していたと思われるアルミニューム製の食器が、広島原子爆弾の強烈な熱閃光で、重なったまま溶解していた。1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して、被爆後は長期間にわたり広島市内は生物不毛の地と示唆された焦土の中で、被爆者たちは、美しいカンナの花を見詰めて、戦後に生き残れる希望を抱いた。(昭和20年10月末、松本栄一撮影)

【広島市、広島原爆戦災誌、第一巻、序、1971年8月6日刊行 : 被爆関係の写真は、その歴史的記録を尊重し、それぞれ撮影者、撮影年月日、撮影場所を明記するようにつとめた。ただし、一部には不明のものもある。】

  広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆者体験の証言や各種の調査士利用など、つぶさに集大成して、『広島原爆戦災史』を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を祈念する永遠の献花とする次第である。

広島市長 山田 節男  昭和四十六年八月六日




広島のK. キッカワは広島原子爆弾の閃光による焼傷後に、1947年4月30日時点でケロイドが全身に背中から上肢に発生した。

   非公開の日本原爆被爆者の写真 ー 原爆傷害調査委員会(ABCC) ー アメリカ国立公文書館 (The National Archives College Park, Maryland)  SC-285581 (アメリカ陸軍通信局長写真) SC-285581 (FEC 47-...