2023年8月11日金曜日

アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。

アメリカ軍による原子爆弾の影響調査は、日本側の調査とほぼ並行して、アメリカ軍側でも9月中旬から11月下旬まで実施された。日本側が設置した原爆被害調査特別委員会と同様に複数の専門家グループが派遣され、各分野で詳細な調査が行われた。アメリカ軍医が、長崎原子爆弾に被爆して原爆病に罹患して病院に救護されて入院した患者となった被爆者の身体を病室で診察した。

 最初に長崎にアメリカ軍のマンハッタン工兵地区特別調査団(the Special Manhattan Engineer District Investigation Group)が到着した。トーマス・ファレル准将を団長とし、医療チーム、技術チームを含む約30人の科学者から構成された。1945年9月中旬から10月上旬にかけて長崎で情報収集を行った。第1班の主な任務は、原子爆弾の影響に関する予備調査を行った。長崎を占領しているアメリカ軍の安全のために残留放射能のレベルを測定した。

 次にアメリカ軍から長崎を訪れた調査団は、「ナブタック・ジャップ・チーム(Navtac Jap Team)」と呼ばれる海軍医療技術調査グループの一団であった。大村海軍病院を拠点とするこのチームは、9月下旬から11月下旬までの3カ月間、長崎原子爆弾の調査に従事した。軍医のスタッフォード・L・ウォーレン大佐が率いる調査チームは、原子爆弾の生理学的影響の調査を行った。調査チームに属する1つのグループは、長崎でもっぱら放射能測定に従事した。別の陸軍医療班は9月30日に長崎入りし、原子爆弾の医学的影響について調査した。アシュリー・オーガソン大佐は、陸軍医療班の計画責任者であった。イギリス軍も、1945年11月、原爆調査団を派遣した。広島、長崎の原爆の影響を調査し、1946年に報告書を発表した。

 日本側の原子爆弾の影響調査は、1945年9月14日に日本の文部省が設置して、10月24日に初会合した日本学術会議の原爆被害調査特別委員会(Special Committee for Investigation of Atomic Bomb Damages)の調査が実施された。実際の作業は9月末から10月にかけて各分野で開始され、1948年3月までの3年間続けられた。しかし、本質的な研究のほとんどは1946年3月までに完了したようである。原爆の爆心地や輻射熱、残留放射線のレベルなどの調査もこの期間に終了した。影響調査の研究成果は、1951年8月に日本学術振興会から「総括報告書」として、1953年5月には日本学術会議から「原爆傷害調査報告書」全2巻(1,642ページ)として刊行された。進駐軍GHQは、原子爆弾の調査研究、成果の公表に、1945年12月11日に原爆災害調査特別研究委員会に通告して、さまざまな検閲と制限を加えた。




2023年8月5日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。

長崎原子爆弾の爆心地から南南東約3.0kmに位置した新興善特設救護病院の屋外で炊事が行われた。被爆者の家族が、救護所となった新興善国民学校(現・長崎市立図書館)校庭の一隅において炊飯していた。左奥の建物は相撲場であり、右は屋内体操場兼講堂である。

 新興善国民学校は、長崎原子爆弾の爆風によって窓ガラスは割れた。新興善国民学校の校舎自体は残存した。被爆した負傷者の救護所として使用された。新興善国民学校は、類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固だったために、長崎原子爆弾の炸裂した直後から救護所として活用された。教室は診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。爆心地付近では救護所が害滅して、多くの被爆者が新興善国民学校に殺到した8月9日に被爆日直後の患者数は不明である。治療した被爆患者数は、8月17日~8月31日の約15日間だけでも、入院と外来の患者数は約8,000人を超えた。9月1日時点の入院患者数は、約260人に及んだ。

 1945年8月9日に投下されて炸裂した長崎原子爆弾による火災を免れた新興善国民学校は新興善国民学校救護所となった。8月11日には針尾海兵団より救護隊が到着した。その後、佐世保海軍病院武雄分院の医療隊も到着した。県庁方面からの火災によって、救護活動は一時中断した。壊滅状態にあった長崎医科大学附属医院にかわり、親興善国民学校が長崎市内で最大の救護所となった。8月16日には新興善特設救護病院となった。さらに10月6日には長崎医科大学附属医院となって、引き続き長崎原子爆弾の被爆者の治療が行われた。

















Japan No Atomic Bomb (JNAB) 
日本原爆禁止の会
2023年8月5日に
Blogger投稿数は500回に達した。

2023年7月29日土曜日

1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点とした。11月7日に宇品の広島鉄道局仮家屋で、被爆者の検診が実施された。

広島原子爆弾が投下された広島市内で、日米合同調査団の医師により被爆者の検診が実施された。1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に、来日して広島市を訪問した合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点として合同調査を始めた。1945年11月7日に、宇品の広島鉄道局仮家屋(the temporary home of the Hiroshima Railroad Bureau in Ujina)で、被爆者の検診が実施された。

  1945年9月22日に東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部の長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請した。その結果、「日米合同調査団(the Japan-US Joint Commission)」(アメリカ側は「合同委員会(the Joint Commission)」と呼称)が結成された。日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選出された。東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力した。

 日本とアメリカの調査団なる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10人、日本側37人)は10月12日に広島に入った。広島第一陸軍病院宇品分院(the Ujina Branch of the Hiroshima First Army Hospital)を本拠として合同調査を始めた。合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行なった。アメリカ側の第一次調査は、1946年9月に終り、収集した資料はアメリカに持ち帰った。

 この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946年11月「日本における原爆の医学的効果」として、日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告した。






2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。




2023年7月16日日曜日

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。本格的な発掘作業の結果、約600体分の遺骨と62点の遺品も見つかった。似島は戦時中に、海外からの兵士や軍馬の検疫所があった。原爆投下後により収容所となッタ。原爆で傷ついた被爆者約1万人近く運び込まれた。身元不明の死亡した被爆者は、一カ所に集めて千人塚に埋葬された。1955年に約2,000体の遺骨は、広島平和公園の戦災供養塔に移された。広島にまだどの程度の遺骨が潜在しているかは想定できず、現在も多くの遺族が身内の遺骨を探し求めた。

 日清戦争開戦前の1894年9月15日に大本営が東京から広島に移った。明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,広島は臨時首都となった。全国から日本軍兵士が広島に集結して、宇品港から出兵して帰還した。似島が宇品港と対峙して近距離で、似島陸軍検疫所(第一検疫所)が1895年に創設された。1904年に,日露戦争が勃発すると,検疫数は日清戦争時の5倍に及び、第2検疫所(消毒所)が増設された。1日の処理能力は約8千人の死体の大規模検疫所になった。

 1944年夏頃から、海上挺進戦隊などの特攻訓練基地が設置された。ベニヤ板の小型舟艇を用いて教育訓練した。ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(マルハセ)の海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部が使用された。秘密部隊である陸軍船舶練習部の第十教育隊が似島で教育訓練した。

 1945年8月6日の原子爆弾の投下直後から、日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷被爆者を手当する似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容しした。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8kmであった。8月6日は午前10時頃から広島市中で被爆した被爆者が船で似島に続々と運ばれた。常時に被爆者が運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等が、必死の収容,治療,看護業務を昼夜を問わず執行した。似島町の島民も、献身的な救護活動をした。収容者された被爆者数は約1万人余と推定された。証言や発掘された遺骨数から,搬送された被爆者のうち,約7割が死亡したと推計された。

 被爆者が死亡して、火葬が8月10日頃から開始された。死者の急増により,火葬する手間もなくなった。身元不明のまま多くの死体を、隣接する陸軍馬匹検疫所の構内の各所に土葬した。戦後にたびたびに,被爆者の遺骨が収容された。1945年9月に検疫所職員等が、馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)を建立した。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体は,平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。




2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年7月1日土曜日

広島原爆の爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。その側には、身内の家族がその側でお見舞いしていた。

 大芝国民学校は、広島原子爆弾に被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。大芝国民学校内では被爆者は出たが、被爆による即死者は特記なかった。被爆した直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあった。広島県知事は、8月7日に13箇所の救護所を告知した。その内に中山地区に大芝国民学校が含まれた。大芝国民学校は、8月7日から数百人の被爆者を救護した。

 大芝国民学校は、1926年4月1日に大芝尋常小学校が設置された。1929年に広島市大芝尋常小学校と改称した。1941年に広島市大芝国民学校と改称された。1945年8月6日に大芝国民学校は広島原子爆弾に被爆した。1947年に広島市立大芝小学校と改称された。

 広島原子爆弾の炸裂によって、直接に被爆した人数は、広島市衛生局が集計した。1995年の報告書『原爆被爆者動態調査事業報告書』では、主として爆心地から約2km以内の被爆者は約243,463人であった。そのうち1945年末までに死亡した人数は、約83,177人である。約2.0kmから約3.0kmの被爆者約67,538人にも、避難した人が多数いた。約20万人以上の人々が避難したと推測された。その避難した後に多数の被爆者が死亡した。その際、傷害を受けた被爆者(原子爆弾爆発時に広島市にて、外傷、火傷、放射線の傷害を受けた人を被災者と記す)は、自力あるいは他力で、その多くが何処かの救護所に避難したと推察された。




広島のK. キッカワは広島原子爆弾の閃光による焼傷後に、1947年4月30日時点でケロイドが全身に背中から上肢に発生した。

   非公開の日本原爆被爆者の写真 ー 原爆傷害調査委員会(ABCC) ー アメリカ国立公文書館 (The National Archives College Park, Maryland)  SC-285581 (アメリカ陸軍通信局長写真) SC-285581 (FEC 47-...